和尚のミニ法話

2016/01/08

たすきをつなぐ(2)

以前中学校に勤務していたとき、卒業時に配布する生徒会誌に巻頭言として寄稿した文を紹介します。

『正月の風物詩でもある箱根駅伝では、時々アクシデントがあります。数年前の話です。二日目の復路、先頭を快走する順天堂大学7区のランナーは順調に次の選手にたすきを渡すかに見えました。しかし、中継所まで残りわずかとなった時、体調に変化が起きたのです。テレビでは「ちょっとスピードが落ちたようですね。」「表情が苦しそうです。」と伝えています。見る見る間にランナーの足元はもつれ出し、道路の左右をフラフラし始めます。路肩を越え、沿道の観客に接触しそうになります。「アー、これはおかしい。どうしたことか。」アナウンサーが叫びます。後続車から監督さんが降りてきて選手に駆け寄り、水を差し出します。脱水症状だったのでしょうか。給水を得たランナーが真っ直ぐに走り出します。しかしそれもつかの間、再び足がふらつき始めます。表情もうつろな感じです。懸命に走っているのでしょうが歩行より遅いスピード。監督が再び水を与えるとまた走り出す。その繰り返し。後続の大学の選手に抜かれ、順位もどんどん下がってしまいました。解説者も「個人のレースなら止めていますね。監督も抱きかかえてやめさせていますよ。」とランナーが危険であることを述べています。沿道の人はもちろんテレビ桟敷の多くの人もハラハラドキドキです。私もテレビを見ていて「もういいよ。がんばったよ。今止めても誰も君を責めたりしないよ。」と声をかけたくなってしまいました。でも彼は足の歩みを止めることをしません。たすきをぎゅっと握りしめて、次のランナーに渡すまでは倒れたって走る、そんな決意で一歩一歩踏み出します。
選手はなぜ走るのか。解説者は、「これがたすきの重さです。みんなでつないできたたすきですからね。」と言います。たすきの重さとは何でしょうか。1区から走ってきた選手たちの汗はもちろん、今日走れなかった部員や多くの関係者の希望が託されています。選手を支えてきた友人や家族、部の発展に貢献してきてくれた多くの人の心。それは、過去何年にも渡って築き上げてきた母校の伝統そのものだと言ってよいかも知れません。
ランナーは「たすきの重さ」を十分に知るが故に、「たすきをつなぐこと」に命懸けになるのです。見ている私たちも、こんな場面に出会うと、胸が締め付けられながらも、たすきが無事つながることを願わずにはいられないのです。
8区の中継所が見えてきました。次のランナーが手を上げて待っています。彼はヨロヨロ、フラフラしながら何とかたすきをつなぐことができました。つないだ瞬間、タオルにくるまれて道路に倒れてしまいました。中継所にいた多くの観衆から、拍手や安堵の声や泣き声まじりの大声援が湧き起りました。私の目からもポロポロと涙がこぼれました。「よかった。ほんとによかった。」そう思いながらも、今度はたすきを受け取った8区の選手が気がかりです。余りに重いたすきを受け取った心境はどうであろうと心配になりました。でも、口をぎゅっと真一文字に結んで軽快にテンポよく走る姿が映し出され、ほっと気が楽になりました。
「たすき」は駅伝選手だけがつなぐものではありません。つなぐべきたすきは誰でもが持っています。あなたの精一杯のがんばりを受け継ごうと待っている人が必ずいます。あなたの努力し続ける姿を目標にして、それに続こうとする次の人がいるのです。あなたの懸命な姿を見て、大声援を送ってくれる人は大勢いるのです。』

卒業生から1・2年生へのバトンタッチを意図して書いたのもですが、「相承」「正伝の仏教」にまさしく通づることでもあると思っています。