和尚のミニ法話

光照寺の和尚によるミニ法話をお届けします。

和尚様和尚様2

2017/09/11

○○坊主

「〇〇坊主」という言い方はたくさんありますね。乞食坊主、てるてる坊主、なまぐさ坊主、海坊主・・・。
大本山永平寺発行の「傘松」には毎号安居者(修行僧)の随筆が載っているのですが、今月号のR禅兄の随筆の冒頭にこうあります。
『「どんな僧侶を目指したいのか、考えながら修行に励みなさい。」僧侶には色々あり、坐禅を主とする「坐禅坊主」のほかに「作務坊主」「諷経坊主」「説教坊主」「梅花坊主」「葬式坊主」「修行坊主」等々たくさんの例を挙げながら師匠が話してくれました。・・・後略・・・』
うーん、それしかしないというのではなく、得意とするところ、という意味の〇〇坊主なのだと思います。確かにT寺の先代方丈様は「坐禅坊主」でしたしS寺の方丈様はお話がうまくてわかりやすい「説教坊主」です。SA寺の先代方丈様は御詠歌がべらぼうに上手でしたので「梅花坊主」でした。
自分のことに当てはめてみると、どれもそこそこできるけどこれといった得意技のないのが私です。しいて言えば、話はまあまだと思いますが、寺族からは「長い!」と不評を買うこともあります。今は「作務坊主」でしょうか。薪ストーブ用の薪づくりや挿し芽で増やしたアジサイの定植、ときどき草取り。今は外作務に精を出しています。(なまぐさ坊主は昔から変わりませんけどね。)
 

2017/09/04

実るほど頭を垂れる稲穂かな

稲刈り真っ最中です。波打つ黄金色の稲穂が大型収穫機(コンバイン?)に吸い込まれていきます。今は機械のハイテク化が進み、稲刈り風景も昔と一変しました。圃場整備で大きくした5反田んぼもわずか数時間で丸坊主です。
農家の方と話していると、常に話題になるのは「農業機械の価格が非常に高い」ということです。「先日展示会で見てきたが、1200万円もする収穫機があった。家が建つほどだ。」という話も聞きました。「田んぼには超高級ベンツが何台も走っているようなもんだ。」とおっしゃる方もいました。コメ農家は大変です。以前から危機が言われていましたが今もかなりのようです。
黄金色の稲穂と言えば、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ということわざがすぐ思い浮かびます。確かに言いえて妙ですね。謙虚を美徳とする日本人の指針です。わが身を振り返るととてもこうはいきません。私は、しゃべらないと偉そうだと以前から妻子に言われてきました。容姿のせいもあるようだけれど、そうかなと怪訝に感じていました。話をしてみれば気さくで気のいい坊さんだとわかってもらえるとは思うのですが・・・。
「実らずとも頭をもたげる坊主かな」。坊さんの世界にはそのような方がよく見受けられます。あー、やだやだ。

 

2017/08/29

ミサイル発射

朝課中に、災害避難や消防のものとは違う変わったサイレンが鳴るなと思ったら「ミサイル発射!」ときたもんだ。
ビックリはしましたが切迫感はありませんでした。朝課を中断しロウソクの灯りを消して、庫裏に戻ってTVニュースを見た次第です。
この後どうなるのでしょうか。日本政府はさすがに何らかのアクションを起こすのでしょうね。自国の領空を断りもなしに通過されても「最大限の非難をする」なんて言うだけじゃ、さすがにだめだろうと思いますが。
戦争の引き金になるのでしょうか。どんなことがあっても戦争はやっぱりだめですよ。回避の力が働いてほしいと願っています。戦争回避のために仏教界ができることは・・・思いつきません。平和を願う祈祷法要をして祈ることぐらいでしょうかね。折しも今日は29日。両祖様の月命日です。永平寺開祖道元禅師と總持寺開祖瑩山禅師は奇しくも9月29日がご命日です。課罷、両祖月忌諷経をあげ、両祖様に平和を願いました。

 

2017/08/28

墓じまい

「終活」の社会現象化にともない「墓じまい」が問題というか話題になってきています。拙寺のような檀家の少ない寺でも去年から今年にかけて4件の墓じまいがありました。1件目は遠地にお住いの檀家さんが地元に霊園を求めて新しい墓を建立したいので墓を引き上げるというもの。併せて離檀となりました。子の世代になると寺との関係も薄くなってきて致し方なしです。2件目、3件目は子がおらず後継ぎがいないので、いずれ墓の守り手がいなくなるので、当寺の永代供養墓に先祖のお骨を収め、自分もいよいよの時には一緒に永代供養墓に入ろうというものです。これも適切な選択であろうと思います。というかご自身が生前のうちに懸案事項を解決してくださったのでご立派とも言えます。そして4件目は嫁に行った娘さんが実家の後始末として墓じまいをしたというものです。高齢のお母様の一人暮らしでしたが、娘さんのご主人の理解もあって、娘さんご夫婦が一切の面倒を見てくださいました。立派なお墓が自宅の敷地内にあったのですが、この機に墓じまいをして当寺の永代供養墓に納骨するというものです。この娘さんのように後の面倒を見てくれる人がいればまだよいのですが、この後どうなるのだろうと心配になるお宅もあります。
永代供養墓を建てておいてよかったと思います。いよいよの時にはお寺の供養墓に入ればよいと安心してもらえますから。
「終活」にはお墓の問題は避けて通れません。散骨や樹木葬は私は反対です。自分はどうなってもよいとおっしゃいますが、残された人、お参りをしたい人にはお墓という対象物が必要だと思うからです。

2017/08/27

「一期一会」 実行は難し

FMポートの番組「モーニングゲート」の中でDJ遠藤麻里さんが言っていました。
『年を重ねたせいか、時の経つのがとても早く感じられる。老いや死に近づいているからだろう。であるならば、「これが最後かもしれない」と考えることにしよう。食事をしていても、これが最後かもしれないと。目の前の人との会話も、これが最後かもしれないと。そうすればその時々を、相手の人を大切にしようと思う心が増すに違いない。』と。
まさしく一期一会であります。聞いていて、そうだなと深くうなづきました。私も齢を重ねて先が心配になるお年頃になりましたので、生き方そのものを「やさしさ重視」でいかなければならないなと思っていたところに、遠藤さんの言葉がピタッときて、的を得たりという感じでした。
しかし思いつきだけで一期一会を日常化することはとても困難です。放送を聞いた翌日、一周忌法要の法話でこのことをお話ししました。一期一会を心がけて生きたいものですと締めくくりましたが、次のお斎の席では全く普通通りののんべえ坊主になってしまいました。口先ばっかりで実行の伴わないダメ坊主ぶりを発揮してしまい、帰山してちょっと落ち込みました。