和尚のミニ法話

2015/02/24

布施というは貪らざるなり②

布施というは貪らざるなり。「独り占めしない」ということでもあります。
本山では食事の時に「生飯之偈(さばのげ)」を唱えます。
  汝等鬼神衆(じてんきじんしゅう)
  我今施汝供(ごきんすじきゅう)
  此食偏十方(すじへんじほう)
  一切鬼神供(いしきじんきゅう)
修行中はよく意味も分からず、ただ唱えているだけでしたが、大事な偈文だったのです。
「独占しない」ということについて、新潟日報の日報抄(2011.7.8付)を紹介させていただきます。

『仏教の作法の一つに「生飯(さば)」がある。食事の際に、ご飯の一部を取り置き、鳥獣などに施すのだという。食べ物を独り占めにせず、すべてのものに分け与える。そんな考え方が根本にあると聞いた▼先日テレビで曹洞宗の僧侶の食事風景を見た。1人当たり7粒のご飯が器に集められ、境内に寄ってくる小鳥に供されていた▼まねたわけではないのだが、拙宅の庭を遊び場にするスズメたちに数日前からコメを分け始めた。・・・(中略)・・・カーテンのすき間から観察して分かったことがある。彼らもまたわずかな糧を独り占めしない。一羽が数粒ついばむと、入れ替わりに別の一羽が舞い降りる。植木の枝には見張り役らしい一羽がとまる。誰に教えられたわけでもない。野性を生き抜く知恵だ▼3月11日夕から翌朝にかけて、津波から逃れた建物で、子供たちがポテトチップスなどを分け合って空腹をなだめたという記事が忘れられない。暗闇で小さなかけらをやり取りする光景を想像するだけで涙がでる。▼日本の食文化を世界無形文化遺産に登録する準備がはじまった。・・・(中略)・・・世界が注目するのは健康的で美しいところだという。しかし、私たちの食文化には、それ以上の価値があることが大震災で確かめられた。「独占しない」それは既に立派な無形の財産である。』

私はよく法事等の折に、祭壇に供えられた霊供膳の生飯(さば)を示して、この話しをさせてもらっています。「自分のものを分けてあげる」できそうでなかなかできないものです。ですが、さりげなくスッとできる人になりたいなと思います。

写真は、本堂壁の獅子の絵です。(本文とは関係ありません)